イスラエル③宗教ってなんなんだ What is ‘religion’? / ?Qué es religion’?
|2015.10.13 Tel Aviv→Jerusalem, Israel@Rob’s hostel
2015.10.14-15 Jerusalem, Israel@Rob’s hostel
イスラエルの別世界テルアビブを知った後、
バスでは、軍服を来て銃を肩からかけた男女をたくさん見かけた。
エルサレムのバスターミナルでは、ユダヤ教の食品規定に則って作られたマクドナルドの店舗を見かけた。いつもの赤いブランドカラーではなく、青が使われている。
ユダヤ教の中でも超正統派と言われる独特の服装や髪形をした男性
キッパと呼ばれるユダヤ教の男性がかぶる帽子のようなものも、カラフルにデザインされて売っている店をいくつも見かけた。若者の間では、宗教的意味のあるキッパも今では好きなようにコーディネートできるようになっているのだ。
一方で、イスラム教徒が多く住む地区では、
エルサレムの旧市街を訪れた。
出歩く地元の人の数や観光客が減っているせいか、
キリスト教の聖地、聖墳墓教会はそれでも人でいっぱいだった。
ユダヤ教の聖地、嘆きの壁。お祈りにくる信者の人々と列に並ぶ観光客の間で、順番争いについてのちょっとした口論にもでくわした。
イスラム教の聖地、岩のドーム。
圧巻の存在感。観光客含め、いつもより圧倒的に人が少なかったようだ。
ここを訪れる女性は、長ズボン・長袖、頭を隠すスカーフといった服装が求められる。
いずれも、
モロッコで旧約聖書を簡単に解説したマンガを読んだ。エルサレムで、
調べてみて、行ってみて、目の当たりにして。
正直、
日本の宗教や自分自身の宗教観というようなものも考えた。自分は仏教徒だと言うのはなんだかちょっと違う気がするけど、先祖代々のお墓もお葬式も仏教式。一神教ではなく八百万の神がしっくりきたり、旅の間は神様に感謝して毎日無事を祈りたくなるほどには神的な存在を信じてる。日本にいる時は、お寺にも神社にもお参りに行くし、イベントとしてのクリスマスも気にしないわけじゃないけど、近年のハロウィンの盛り上がりには正直ちょっとついていけない。外国の人からみれば、私たちの宗教観なんてただの節操のないものにうつるのかもしれない。でも、よく言えば日本の宗教の寛容性とも表現できるらしい。
ユダヤ教の人々がいつか救世主に救われることを求めて眠るお墓のそばで、暮れゆくエルサレムの旧市街を見ながら、とりとめもなく考え、感じた。
このブログを書いている今、実はもう帰国して東京にいる。フランスのパリでまた大きなテロが起きた。その一日前にはレバノンでも。心配、憤り、不安。テレビで誰かが言っていた。宗教の寛容性をもった日本にできる役割があるのではないか。私たちはイスラムの人々のことを知らなさすぎるし、世界は彼らを無視してきた、と。なんだかちょっとわかる気がした。ロシアやアメリカを中心とした有志連合軍各国によるシリアへの空爆。シリアから逃れてくる人々は、難民ではなく避難民なのだという意見。彼らは本当はいつか自分の国に帰りたいのだと。当事者であるシリアやその地域に住む人々が今後どうしていきたいのか、どうしていこうというのかが一番大事なのに、当事者がうまく関与できていないのが気になるという意見。たしかに。当事者がいないのに、何を解決できるというのだろう。仮に緊急事態で武力に訴えるしかないのだとして、その後はどうしようというのか。
エルサレムで感じた憤りは、宗教が暴力に結びつくことに対する憤りであり、何故そうなるのかがやっぱりわかりきれない自分、どうすることもできない自分の無力感に対する憤りでもあったのだと思う。もしかしたら、他の文化圏で育ったのだから納得しきれないのなんて当たり前なのかもしれないと思った。興味関心をもって知ろうとすること、知ることは必要。その上で、相容れないことをどうやって解決していくのか。妥協、ファジー、歩み寄り、寛容、平和ぼけ、和を尊ぶことetc.など、適切な言葉はわからないけど、よくも悪くも日本的な対応だと思われるような考え方や方法にも希望があるかもしれない、と思ってきた最近。
*旧市街の城壁の外にあるユダヤ教の人々の墓。増え続けている。
*旧市街の近くにある教会のモザイク画。非常に緻密なデザイン。
今もなお、
この地に住む人々がどうか穏やかに暮らせる未来がきますように。
Hanae (^ ^)