ドイツ②戦争の記憶と出会う。in ライプツィヒ&ベルリン To meet memories of War in Leipzig and Berlin/ Para cumplir con los recuerdos de la Humanidad en Leipzig y Berlín

2015.7.23-24 Prague, Czech→Dresden→Leipzig, Germany@Carsten’s House (Couchsurfing)
2015.7.25 Leipzig→Potsdam→Berlin@Heike’s House (Couchsurfing)
2015.7.26-27 Berlin@Heike’s House (Couchsurfing)
ベルリンの壁が崩壊した後の場所を見てみたい、ただそう思っていただけだった。
ライプツィヒに来たのは、ベルリンに行く道の途中だったから。私たちがまだ小さかった頃、世界的な大ニュースとして報じられていた’’ベルリンの壁崩壊。”東西に分かれていたドイツが一つの国に戻るという理解しかなかった。
それが、カウチサーフィンのおかげで二組のご夫婦から貴重なお話を伺う機会に恵まれた。
プラハからライプツィヒに向かう途中、休憩がてらに立ち寄ったのはドレスデン。ザクセン公国の都として栄えたそうです。ほとんど何も調べずに寄ったのだけど、これがなかなかに見どころが多そうな街。黒くすすけた歴史ある建物が建ち並び、その存在感たるやなかなかのもの。建物の一つ一つに重厚感を感じました。ホストいわく、ライプツィヒが稼いだお金はドレスデンで使われたと言われるほど豪華な街で、芸術品や宝飾品の数々が眠っている美術館や宮殿は必見とのこと。(私たちは全然見なかったので、いつかまた!)マイセン磁器の有名な壁画「君主の行列」の大きさは圧巻でした。
ライプツィヒでは、ライプツィヒで生まれ育ったという奥様のコニーとカーステンのお家にお世話になりました。音楽と歴史に造形が深く、政治や日本の文化への興味も深いコニー。ご飯を食べたりお茶を飲んだりお散歩をしたりしながら、いろんなことを話しました。ライプツィヒの後はベルリンに行く予定の私たち。お互い同世代ということもあり、いつしかベルリンの壁崩壊の頃の話へ。すると、この街に暮らしていたというコニーが当時の記憶を話してくれました。ベルリンの壁が崩壊する前、当時の東ドイツに住んでいた彼女。周囲には自由な西ドイツへ渡りたがっていた人々がそれはそれは沢山いたそうです。当時まだ6歳だった彼女には、西ドイツに住む親戚のおじさんがいたらしく、いつも素敵なおもちゃを見せてくれるおじさんが住んでいるところなんだから、それはみんな西側に行きたいって思うよねなんて感じていたそう。言論統制や弾圧もあり、決していい雰囲気ではなかったのだとか。ある日、家族で通りを歩いていた時、デモを止めさせようとする警察が突然通りに入り込んで来て、その場にいた人たちはみんなパニック。彼女の手をひく母の姿や、一時お父さんと離ればなれになってしまったなど怖い思いもしたそうです。
そんな彼女が話してくれたのは、当時のライプツィヒで行われていた市民デモの話。ライプツィヒは、東西ドイツ統一の端緒となった住民運動発祥の街。当時、反体制派のシェルターのような役割を担ったのが教会。右手にろうそくを持ち、左手で火を囲うことで両手を塞ぎ、物を投げるなど暴力を訴える気も手段もないことを示しながら、静かに街の中を歩いたデモ活動があったそうです。
こうして、決して暴力に訴え出なかったこのデモは、一発の銃声も聞こえなかった平和な革命は、ライプツィヒにおいて数年に渡って続けられた月曜デモがもたらしたものであり、ライプツィヒの人々にとってそのことは大きな誇りであると言われたそうです。
コニーはまた、私たちがヨーロッパで出会った中で、日本の安保法制の議論を知っている唯一の人でもありました。第2次世界大戦の話やヨーロッパ各国の移民政策の話などもしました。いずれもセンシティブで非常に難しい問題ではありますが、実際にこうした話ができることを有り難くも感じました。
そして、次に訪れたのはベルリン。ヨーロッパはドライブ旅のため、都心よりも少し郊外のおうちでお世話になることが多かったのですが、ベルリンで出会ったハイクとベンのおうちのすぐそばは、まさにかつてベルリンの壁があったという場所でした。
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彼らが住んでいたのは、かつて西ベルリンだった場所。彼らが住む場所の周囲にはとても広大な農地や原っぱがあったのですが、これらは冷戦時、食料不足に悩む西ベルリンの人々の食物を作る農地として使われていた場所だそう。散歩に連れて行ってくれた彼らから、そんな話を聞きながらこの綺麗な場所にそんな背景があったことを知りました。
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翌日、彼らが連れて行ってくれたのはベルリンの地下を巡るツアー。あまり日本人観光客にはメジャーなツアーではないかもしれませんが、これ、実はただの地下ツアーではありませんでした。第二次世界大戦のために作られたベルリンにある防空壕を巡るツアー。
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なんとも巨大な地下施設に驚きました。そしてまた、この大きな防空壕が作られたのは戦争が始まる5年以上も前のことなんだそう。案内をしてくれたガイドさんは、ヒットラーはparanoidで戦争が起きるずっと前からこれを準備しようとしていたのだから恐ろしいものだと話してくれました。

大きな施設ともいえる防空壕は一部屋で20人ほどを収容できるようになっていたのですが、実際に逃げていた人々は60人近くにも上ったそうです。ベルリンが空爆にあい、ベルリン中の国民がこの防空壕で何日も過ごすことになるなど想定はされていなかったようで、劣悪な衛生状態はもちろん酸素不足になるなど非常に厳しい状態に多くの人々が追い込まれてたのだということを教えてくれました。
当時の人が、6人家族の荷物を小さなトランクに入れて防空壕に逃げ込んだという話や、避難時に最も大切な物は自分がドイツ人であることを照明する文書であり、次に大事なのは離ればなれになった時に備えて家族を捜すための写真であったというような話もしてもらいました。
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ツアーが終わった後は、正直なところ衝撃的なインプットの数々に圧倒されて、うまく言葉が出てきませんでした。
ただ、痛烈に感じたのは、戦争を体験した人にしかきっと本当の意味での凄惨さや酷さはわからないだろうということと、これをどこの誰にあっても二度と繰り返してはならないのだということ。そして、たった1人のparanoidを誰も止めることができなかったという事実の重さでした。
ベルリンの壁のアートギャラリーを見に行ったり、ベルリン名物のカリーブルストを食べたりとたくさん観光もしたベルリンでしたが、私の心に一番残ったのはこのツアーのことでした。
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どんな状況になろうとも、人の危うさを感じるからこそ、武力によらない解決方法を諦めずに探し続ける道を私は選択したいです。
Hanae(^ ^)